【奥田浩美ブログ】
「破壊の学校」とシヴァ神
7年前の2018年、私は「今年は破壊の年になる」とブログに書きました。インドの破壊神シヴァに触発され、創造の前にはまず破壊が必要だと情熱を持って語り、その延長線上に「破壊の学校」がつくられました。
7年の時を経て、神戸でアルムナイが企画した「破壊の学校」に参加した今、当時の自分がシヴァの「破壊」が持つ多層的な意味の、ほんの入り口にしか立っていなかったことに気づかされました。
シヴァの破壊は「慈愛」に満ちた導きで、創造に向けての出発地点に立たせること。そんなことを思っています。
日本ではシヴァ神の本質はあまり知られていないと思うのですが「破壊の神」という位置付けのインドの神様。
かつての私は、シヴァの破壊を、古い価値観を自らの意志で断ち切ることだと、少し単純に捉えていました。やがて、それは「私が壊す」のではなく、宇宙のサイクルの中で「何かが終わりを迎える」という、もっと大きな理(ことわり)なのだと理解するようになりました。
しかし、私の理解は、まだその先にありました。
シヴァの破壊は、ただ冷徹な宇宙の法則なのではありません。それは、私たち人間が、執着心から自力では手放せない不要なものを、時に少々強引にでも取り去り、新しい光の方へと導いてくれる極めて慈愛の深い自然の働き。
病気、老化、失業、別離。私たちの人生で起こる「望まぬ終わり」をシヴァは自らが行ったように見せて、その痛みや喪失感の奥に、「もっとあなたにふさわしい光がある」というメッセージを送ってくる。そんな神様。私はそんな概念を宗教を超えて伝えたかったのだと思います。
流れを受け入れるための「破壊の学校」
私たちの社会は、常に創造し、成長し、拡大することを善とします。だからこそ、物事が自然に「終わり」に向かう流れに身を委ねることに、本能的な恐れを抱くのです。
神戸で開いた「破壊の学校」は、何かを無理やり壊す方法を学ぶ場ではありませんでした。むしろ、この抗いがたい「終わりの流れ」を、恐れずに見つめ、受け入れるための空間でした。
参加者それぞれが抱える「終わらせたいけれど、終わらせられないもの」。それを個人の力で断ち切るのではなく、それが自然にエネルギーを失い、役割を終えていくプロセスを信頼し、見届ける。そのための静かな覚悟を育む場だったように思います。
恐れの本質は「手放させられる」ことへの抵抗
そう考えると、私たちが「終わり」に抱く恐れの本質も見えてきます。それは、単に物事が終わる寂しさだけではなく、自らのコントロールを超えた力によって、愛着のあるものを「手放させられる」ことへの抵抗です。
「まだやれる」「まだ持っていたい」という人間の小さな我(が)を、大いなる愛が「もう、いいのだ」と諭してくれている。神戸で開いた「破壊の学校」は、その声に耳を澄ますための場でした。「終わりの流れ」と「新たな光」が訪れたとき、その奥にある慈愛を信じて身を委ねる。そのための心の準備をする対話の場でした。
失うことの先には、必ず新しい創造の光が用意されている。手放す痛みの際に、周囲に神ではなくリアルな人々が見守ってくれる、最も深い愛の場を私は創りたいのだと思いました。
7年前、「破壊の学校を作りたい」と書いた私がようやく辿り着いたのは、「大いなるものへの信頼を学び、信頼のおける人が終わらせることを見守ってくれる学校」だったようです。
「破壊」を神様に委ねたインドってすごい!
先日の「破壊の学校@神戸」は、美味しいインドの家庭料理で締めくくられました。そのスパイスの香りに包まれながら、私は「破壊を神様に委ねたインドって、なんてすごいんだろう」と、改めて考えていました。
流れに抗わない。大いなる流れに「終わり」を委ねる。ま、いっか。流れの先に新たなことが始まるだろう!そんな気持ち。
また、日本のどこかで、この話の続きをしましょう!