アウシュビッシュで見た青い空と、履けなかった靴


【奥田浩美ブログ】

アウシュビッツを訪ねてから1週間がたちました。訪ねた時に感じたことをうまく言語化できそうになく今日まで過ごしましたが、それでも何かを書き残しておこうと思います。少し、詩的になってしまいますが。

あまりにも青い空と、「関心がある」と思い込んでいた私

この旅のずっと前に、私と娘は映画『関心領域』を観ていました。NHKの『映像の世紀』や数々の映画、そしてかつて読んだ『夜と霧』。このヨーロッパ旅行の後半、娘と共に訪れるこの場所へ、私たちは自分たちなりに多くの”関心”を寄せていたのです。

壁一枚を隔てた場所で繰り広げられる日常と、その向こう側の想像を絶する非日常。その恐ろしいほどの断絶と無関心の構造を知り、自分は決してそうではない、強い関心を持ってこの地を訪れるのだと、そう思い込んでいました。

だからこそ、ポーランド、オフィシエンチムの空の青さと心地よさが、私を打ちのめしたのかもしれません。少し肌寒いけれど澄んだ空気、突き抜けるような青い空と、乾いた土の匂い。その穏やかな風景と、ここが「アウシュビッツ」であるという事実との間には、目眩がするほどの断絶がありました。ここが、人類史上最大級の悲劇が組織的に行われた絶滅収容所の跡地であるとは、にわかには信じがたい。その青空は、私の「関心があるつもり」という傲慢さを、静かに打ち砕き始めました。

「アム・イスラエル・チャイ」とフリルのスカート

第一収容所へ入場し、「働けば自由になる」と書かれたあの有名な門をくぐる時、私たちは一群の高校生たちと一緒になりました。イスラエルからの修学旅行生たちです。胸にヘブライ語で「アム・イスラエル・チャイ」(イスラエルの民は生きている)と力強く書かれた、お揃いの青いTシャツ。しかし、少女たちの腰から下は、風に揺れるそれぞれ異なるフリルの可愛い長いスカートで、長い髪にサングラスを乗せたその姿は、実になんとも可愛らしいものでした。

その瞬間も、彼らの国は緊張の最中にありました。その歴史的、政治的文脈を背負い、民族不屈のスローガンを胸に掲げた彼らが、この絶滅の地で、カメラを向けられれば髪を直し、写真写りを気にしてはしゃいでいる。揃いのTシャツと、思い思いに選んだであろうスカートのバランスを、お互いに確かめ合っている。その姿は、あまりにも日常的で、あまりにも現代的でした。批判的な目ではなく、むしろ「生きている」とはこういうことなのだと深く納得させられたからこそ、その光景が私の胸に最も鋭く突き刺さった気がするのです。

夏至まであと2日というヨーロッパの長い日差しが、あらゆるものの輪郭をくっきりとさせすぎてしまうせいか、私は、自分の心のざわめきを感じずにはいられませんでした。

 

「他人の靴を履いてみよ」という言葉が砕け散る場所

展示棟のガラスケースの前に立った時、私は言葉にできない気持ちになりました。そこには、おびただしい数の靴、靴、靴。持ち主を失い、無言の塊となった靴の山。革が擦り切れた紳士靴、小さな子供の可愛らしいストラップシューズ、日常を彩っていたであろう女性のヒール。そして、別のコーナーには名前の書かれた鞄たち。
それらを前に、私は打ちのめされました。しかしそれは、どうにも感情移入できない自分自身に対する無力感のようなものでした。

ヨーロッパには「他人の靴を履いてみよ(Walk a mile in someone else’s shoes)」という言葉があります。相手の立場になって考えなさい、というエンパシーを促す美しい教えです。しかし、目の前の無数の靴を前に、私はその言葉がいかに軽やかで、そして時に残酷な理想であるかを知りました。

私は、あの靴を履く自分を想像することができなかった。他人の人生を、その絶望を、軽々しく追体験することなどできるはずがない。エンパシー(共感)がいかに困難で、そして傲慢な行為になりうるかを思い知らされた瞬間でした。

 

私の中にもあった「関心領域」の壁

オフィシエンチムの地が教えてくれたのは、「関心がある」という思い込みの脆さです。
むしろ「他人の靴を履けない」という無力感をここで感じ、その上で想像し続けることこそが重要なのだと、そう思うのです。

そういえば、その日の私もある種の無関心の塊でした。
中東情勢により、帰りのドーハ経由のカタール航空は無事に飛ぶだろうかということが、ここ数日の最大の関心事だったのですから。

アウシュビッツでの体験を振り返り、私は愕然とします。歴史の悲劇に打ちのめされているはずのこの場所で、私の関心がいかに矮小で自己中心的なものであるか。中東・カタール・ドーハ。その地名の連想は、今まさにその周辺で戦火の下にある人々のことにはすぐに向かわない。帰路のチケットのこと以外、全く思いが及んでいない自分。

『関心領域』の壁は、私の内にも確かに存在しています。
関心は容易に薄れ、遠く彼方のものとなるし、同じ時間軸であっても容易に他の世界として受け入れてしまいます。
澄み渡る青い空だけ見ていることも可能なのです。

アウシュビッツの展示はこれでもかというくらい、人のエンパシーの限界を問いかけてきます。
私はすぐに青い空を見上げてしまいます。

 

それでも、この空の下で自分の靴を履いて歩き続けることの意味を、私はきっと、問い続けるのでしょう