「それくらい」のこと…という言葉に潜むもの
【奥田浩美ブログ】
「とりあえずビール」くらい大人に合わせてあげなさいという趣旨の記事を読んで、昨日Facebookに意見を書いた。
私は30年ほど前からビールを頼まないという”強い意志”を持って宴会に臨んできた。
何を「それくらい」のことに力んでる??
そう思うかもしれないけれど、本当に強い意志だったのだ。
ビールが好きだったら、もちろん頼めばいい。
でも、私が社会に出た時代は宴会のビールは主として瓶ビールで、若手、ましてや”女の子”がついで回る時代だった。
だから強い意志をもって頼まなかった。
時代が時代なので、宴会でついで回る”女の子”の役目を断ることは並大抵のことではなかった。
そんなことを経て私はビールという飲み物が大嫌いになった。ビールを通してまさに「苦い」思い出が蘇るのだ。
そんなことで、私はビールが嫌いになったけど、いまとなっては、そういう強い意志を30年間貫いてきてよかったと思う。
「それくらいのこと、みんなに合わせてあげなさいよ」「それくらいのこと、何に目くじら立ててるの?」
世の中はそう言う。
でも、「それくらいのこと」をずっと受け入れたら、あれも、これも、それも、、、になっていくのが日本という社会なのだ。
「それくらいのこと」という言葉には、物事への尊重の無さと思考停止が潜む。
だからなおさら「それくらいのこと」を求める人が一体何を意味するかをいつも自分の頭で考えてきた。
「それくらいのこと」にこだわってきたけれど、私は私が作ってきた時代を喜んでくれる女性たちが必ずいると思っている。
そう、女性だけではなく若いだけで色々なことを強要される社会も。きっと「それくらいのこと」を押し付けられてきたのだ。
たかがビール、されどビール。
今は若い女の子でもなくなったけど、宴会のビールのお酌はされるのも嫌い。
じゃあ、一体、誰がお酌するのよ??
目下が目上へお酌っていう文化自体も疑ってみてもいいかもね。