毎日が誕生日のように生きる:「命の近く」で生きること

毎日が誕生日のように生きる:「命の近く」で生きること

【奥田浩美ブログ】

一昨日は私の誕生日でした。

数百件のメッセージをいただき、すべてにお礼の返事を打ちながら、1日ずっと「ありがとう」が言える幸せをかみしめていました。特に私の友人は海外在住も多いので、2日間に渡りメッセージが続きます。さらには私の友人は大らかな人も多いので3日目までメッセージが続きます(笑)

そして、私の誕生日の二日前は実は亡くなった父の誕生日でした。

家族Lineの中では、亡くなった父に対してもHappy Birthday!のスタンプが押されました。オンラインもあの世も「目の前にいない」という意味では同じですから、なんだか不思議な感じで、身体がなくても生きている感じです。

そして、「魂の名残」ってすごいなーと思ったりする一日でした。

父を亡くして一番感じていることは、自分の一生の中でやり残したことがあっても、無念なことがあっても、未練があっても、それをきちんと見せるべき身近な人に見せておけば「生きた意味」があるんだということです。

昔はやりたいことをやり切って前のめりで死にたいと思っていましたが、最近は無念も未練も含め、やり残したことが大きくても「意味のある人生」だと思っています。そして、そのルーツを継ぐものにとってはそれをきちんと受け取ることが使命になる気がしています。

早い時期に命を終わらせたくはないけれど、私と同じ時代を生きた人々の早逝の報を聞くと、私もきっと何らかの未練を残して世を去るのだろうと思います。結果としては未練を残しても、1日1日はできるだけのことを一所懸命やればいいのだと最近特に思います。

どの時代に生まれ、どんな場所で生き、どんな人に囲まれるかによって成功する時代もあれば、それがうまくいかない時代もあるのだと感じます。でも、思い通りにいかなくても、真摯に物事に向かい合って生きた人生は残された者に大きなものを残すと思うのです。

誕生日から2日、まだメッセージを次々といただきながら、いただいたメッセージ数百件すべてに「超いいね!」と「ありがとう」コメントを返しました。まとめてお礼でもいいと思いますが、私は実は自分が言った「ありがとうの数」が人生を彩っていると思っていて、ありがとう!といった数だけ人間は幸せになれると思っています。

人間は必ずしも自分が思ったとおりの生活環境で生きられるわけではなく、思ったとおりの健康のまま日々を過ごせるわけではありません。そんななか、どんな状況にあっても周囲のどんなことにでも「ありがとう」と言える数だけその日の自分が幸せになれると思うのです。

亡くなった父が残したもの、同じ世代の同士のような人の早逝、そんなことと向かい合いながら、1日ずつを「命の近く」で生きる、感謝しながら生きる。そんなことを思う誕生日でした。

写真は父が最後に残した塗り絵です。

私がプレゼントした「世界遺産塗り絵」。

「こんな施設で生きる意味がわからない」

と父親はブツブツ言いながら、これから新しい商売をしたいんだと言いながら、生涯を終えたけれど、新しい商売は私が創るよ。

水彩絵の具を持つ気力も最後はなかったけれど、途中で終わった塗り絵に大きな意味を感じながら、また1年を過ごします。

身近な人の命と自分の命の近くで生き続ける。

 

 

 

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