今の違和感こそが未来の種:当たり前を疑う

今の違和感こそが未来の種:当たり前を疑う

【奥田浩美ブログ】

「当たり前」が変わる瞬間ばかり立ち会ってきた

数年前の写真がFBで上がってきました。
私の父が10年ほど前に寄稿した文章です。私達姉妹が中学生・高校生の頃、家族が3か所に分かれて暮らすことになった理由が「育てる」という季刊誌に書かれています。
30数年前は鹿児島県の校長・教頭は妻を連れての赴任が暗黙の了解となっていて、単身赴任が認められていませんでした。父が島に行くときも教育委員会から「奥さん連れて行きますよね?」と電話があったそうです。

鹿児島港の三島行の埠頭は、乗船客でごった返していた。私と妻は船べりに立った、見送りに来ている我が家の子供達を見下ろしていた。
十年前、同じように離島の屋久島へ派遣教師として赴任したときの事が脳裏をかすめた。しかし、あのときは家族五人が一緒だったが、今回の転勤では家族が三ヶ所に分散することになったのである。
長男は高校三年で下宿生活、長女は高二、次女は中三と姉妹は鹿児島市内で自炊生活である。当時、鹿児島県の教育委員会は、校長と教頭の単身赴任は認めていなかった。
家族が三つに別れて生活をするのは初めての経験だ。今までこらえていた涙があふれて止まらなかった。
(季刊誌:「育てる」より)
ここには書かれていませんが、この時代、地方から受験できるはずの県立の高校には男子寮しかなく女子寮がありませんでした。
父はそれを知って本当に悔しがっていました。女の子が男の子と同じように学べる機会が無いと。そして父は思い切って私達姉妹を鹿児島市内に女の子二人だけで送りこんだのです。
なので私達女の子だけ自炊生活。

そういう経緯で、結果的に鹿児島のへき地育ちでこんな強い女の子が育ちました。
でも、わずか30数年前に、”女性”は出世する男性の従属物のように扱われていたわけです。教育の世界ですら。地域の教育ということを旗印に実の母親を奪われ、独立せざるを得なかった私達。

年数がたってみると、まさに理不尽と思われることも、こうやって「当たり前」だったのです。
学校長=地域の担い手=夫婦で地域を作るという発想だったのでしょうね。実際に母は地域行事の中心となり、沢山の料理で地域の人をもてなし、細やかな気遣いで父をひたすら支えてきました。

地域教育という方向から見ると正義。
男の出世という方向から見ると正義。

今考えると父の涙も理解できますが、その頃の父自体が世の中の「当たり前」に染まっていたのでしょうし、転勤も妻帯同も断るわけにいかない社会だったわけです。
私はそんな中、「男の子と女の子に対する教育制度の違い」「妻が必ず管理職の赴任に伴わなければならない転勤」に対して大きな違和感を持っていました。
どちらも「鹿児島県」という大きな単位の”社会”が決めたものであれば、いつかそこを出ればルールが変わるんだろうか?とも思っていましたが、違和感というレベルに過ぎず、私も大きな不満を訴えることなく、人と少し異なる少女時代を鹿児島で終えました。

時代は変わり、女性の管理職も増え、男性の未婚者も増え、いつしか妻帯同の暗黙の掟も強制されなくなりました。
そして、あの違和感はやっぱり「変えるべき社会」に対してのものだったのだと強く思いました。

今の違和感こそが未来の種

今の時代はどうでしょう?
きっと数十年後に「あり得ない」と言われそうなことが、当たり前のように行われていないでしょうか?
私は自分の経験から、いつも「暗黙の了解の脆さ」を考えます。
誰かが違和感を感じていることは、いつしか表現できる不満となり、当たり前のように行われていたことが否定され、風化していきます。
風化を始めるころに、多くの人々は何事もなかったかのようにそれに従い、また次の時代の「当たり前」が生まれます。

私は最初の段階で「違和感」を感じたらきちんと社会に伝える人間であろうと常に思います。
そんな発想で現代を眺めてみると、数十年も待たず、今すぐに変えていくべきことがあるような気がします。

私は時代がきちんと変わることを信じています。
でも、だれかが最初の違和感を唱える必要があると思っています。
今の違和感こそが未来の種だと思って、当たり前を疑おう。

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