子育てに付きまとう罪悪感は「時差ボケ」のようなもの
【奥田浩美ブログ】
前回のブログで、私がここまでほとんど子育てに関して「罪悪感」というものを感じなかったということを書きました。
(前回のブログ:子供を他人に託す時間は他人に対する感謝を育む時間)
そんなことを言ったって、罪悪感なんて止めようと思っても湧いてくるのよ!!!!!!(エクスクラメーションマーク多め)
と思った方も多いと思います。
そうですね。心の持ち方で持たずに済むんだったら皆、そんなものはとっくに捨ててますね。
私はどんな事象も3つの軸で捉えます。
1.時代を変えて考えてみる(縄文時代だったらどうだろう?江戸時代、今、未来だったらなど)
2.いる場所を変えて考えてみる(フランスだったらとか、アフリカだったら、宇宙だったらなど)
3.視点を変えて考えてみる(自分以外の人だったらとか、男性だったらとか、若い人だったらとか)
大体のことはこの3軸で検証すると、あれ??なんで私、罪悪感を持っているんだろう?となります。 こういう私の発想法で、私達が抱きがちな罪悪感を分析してみました。
例1)子供を他人に預けることに「罪悪感」を感じる
1.時代を変えて考えてみる
縄文時代って女性が集まって子供を見ていたんじゃないかな? 未来はワンオペとかないだろうな
2.いる場所を変えて考えてみる
アメリカとかベビーシッターに預けるのは当たり前だよね、中国だとおじいちゃん・おばあちゃんが面倒みるほうが多数だ 3.視点を変えて考えてみる(自分以外の人だったらとか、男性だったらとか、若い人だったらとか)
男の人って仕事中に子供が保育園にいても罪悪感とか抱かないよね。 とか、こんな感じです。
あれ?そういえば、この罪悪感ってなんで自分だけ持っているんだろう?とか思うわけです。
そこまで考えると、思い当たることがあるのではないでしょうか。わずか数十年前に自分を育ててくれた母親は専業主婦で、子供がお家にいてお母さんが面倒を見てくれていたその姿だけに照らし合わせた罪悪感だぞ・・・とか。
あるいは、そういう社会を当たり前と思ってきた周囲の人々に対しての罪悪感だぞ・・とか。
今はその時代と社会背景は変わっているのです。自分が知っていたとても小さな世界・周囲と照らし合わせた罪悪感じゃないですか?過去の価値観前と照らし合わせた罪悪感って必要ですか?
時代は変わっているのです。昔から今へ、今から未来へと。
私たちはものすごいスピードで変化している社会を生きています。
時代の時間差で感じる不快感、それが罪悪感と思ってやりすごせばいいのでは?
時代の価値観の移動についていけない身体=時差ボケの気持ち悪さのようなものが罪悪感と思えばいい。
なんか、だるく心地よくないですよね。
過去の時間に身体がひっぱられるというか。
罪悪感なんて時差ボケの不快感みたいなもんだと思って
ゆっくり寝ましょう。
ゆったり過ごしましょう。
私達がつい感じがちな罪悪感は、「ああ、これは時差ボケのようなもんね」と軽く流してもいいんだよ。
罪悪感という不快感の正体
今週は娘の卒業式。前回のブログで、私がここまでほとんど子育てに関して「罪悪感」というものを感じなかったということを書きました。
(前回のブログ:子供を他人に託す時間は他人に対する感謝を育む時間)
そんなことを言ったって、罪悪感なんて止めようと思っても湧いてくるのよ!!!!!!(エクスクラメーションマーク多め)
と思った方も多いと思います。
そうですね。心の持ち方で持たずに済むんだったら皆、そんなものはとっくに捨ててますね。
「3つの軸」の発想法
では、私はなぜほとんどの罪悪感を感じずにいるのか?今日はその思考法を披露したいと思います。私はどんな事象も3つの軸で捉えます。
1.時代を変えて考えてみる(縄文時代だったらどうだろう?江戸時代、今、未来だったらなど)
2.いる場所を変えて考えてみる(フランスだったらとか、アフリカだったら、宇宙だったらなど)
3.視点を変えて考えてみる(自分以外の人だったらとか、男性だったらとか、若い人だったらとか)
大体のことはこの3軸で検証すると、あれ??なんで私、罪悪感を持っているんだろう?となります。 こういう私の発想法で、私達が抱きがちな罪悪感を分析してみました。
例1)子供を他人に預けることに「罪悪感」を感じる
1.時代を変えて考えてみる
縄文時代って女性が集まって子供を見ていたんじゃないかな? 未来はワンオペとかないだろうな
2.いる場所を変えて考えてみる
アメリカとかベビーシッターに預けるのは当たり前だよね、中国だとおじいちゃん・おばあちゃんが面倒みるほうが多数だ 3.視点を変えて考えてみる(自分以外の人だったらとか、男性だったらとか、若い人だったらとか)
男の人って仕事中に子供が保育園にいても罪悪感とか抱かないよね。 とか、こんな感じです。
あれ?そういえば、この罪悪感ってなんで自分だけ持っているんだろう?とか思うわけです。
そこまで考えると、思い当たることがあるのではないでしょうか。わずか数十年前に自分を育ててくれた母親は専業主婦で、子供がお家にいてお母さんが面倒を見てくれていたその姿だけに照らし合わせた罪悪感だぞ・・・とか。
あるいは、そういう社会を当たり前と思ってきた周囲の人々に対しての罪悪感だぞ・・とか。
今はその時代と社会背景は変わっているのです。自分が知っていたとても小さな世界・周囲と照らし合わせた罪悪感じゃないですか?過去の価値観前と照らし合わせた罪悪感って必要ですか?
罪悪感は「時差ボケの辛さ」のようなものだと思ってやりすごす
私は、そういう類の罪悪感は「時差ボケの辛さ」のようなものだと思っています。時代は変わっているのです。昔から今へ、今から未来へと。
私たちはものすごいスピードで変化している社会を生きています。
時代の時間差で感じる不快感、それが罪悪感と思ってやりすごせばいいのでは?
時代の価値観の移動についていけない身体=時差ボケの気持ち悪さのようなものが罪悪感と思えばいい。
なんか、だるく心地よくないですよね。
過去の時間に身体がひっぱられるというか。
罪悪感なんて時差ボケの不快感みたいなもんだと思って
ゆっくり寝ましょう。
ゆったり過ごしましょう。
私達がつい感じがちな罪悪感は、「ああ、これは時差ボケのようなもんね」と軽く流してもいいんだよ。