父が遺した言葉「よかとよ」
【奥田浩美ブログ】
今日は3月9日、父の月命日です。
そして、娘が自分で大きな決断をしてから、ちょうど1年。
「よかとよ」
という父の声が聞こえました。
この言葉は大学に行かないで自分でやりたいことをやるということを娘が私の父に伝えたときの父の言葉です。
寝たきりの状態でのかすれた声でしたが、今でもその声が明確に頭に残っています。
そして、その言葉は娘への父の最期の言葉となりました。
父の施設を娘と最後に訪ねたときの会話です。
父「アヤキはどこの大学に行ったのか?」
娘「大学には行かなかったの。自分でこれから進む先を考える」
父「そうか、よかとよ(いいんじゃないか)」
娘はおじいちゃんに何故進学しないのか?
これからどうするのか?
そんな進学校でそんな進路でいいのか?
とてっきり聞かれると思っていたので、「よかとよ」の一言に驚くとともに、なんだか心の底から理解されたような気持ちになったと言います。
思い返せば、私がインドの留学の途中で、スラムや売春厚生施設などのフィールドワークの実習続きの中、あまりの無力さにノイローゼになり、まったく学校に行けなくなったことがありました。原因不明の熱が続き、心因性の脱毛症になり、髪の毛は三分の一くらい抜けてしまったことがあります。
父はあのときも「よかとよ」と、短い言葉だけを私にくれました。
父とはインドに渡る際に大げんかをして、絶対修士をとって卒業すると啖呵を切った背景があった状態でした。
そんななか、本当に親馬鹿だと思いますが、父はわざわざ私のカレッジの学長を自分で訪ね、私の状況と、ほんの少しだけ信じて待っていてくれというようなことを学校に言ってくれました。
あんなに父と大喧嘩して渡ったインドです。何も達成できない状態になりながらも、父はずっと私の進む先をゆっくりと見守るつもりだったのだと思います。
なんの成果も出せなくても。
ふと、一昨年デンマークの高校を視察したときのことを思い出しました。
「自分の人生をどう切り拓くか、何がやりたいか、本人の意志をひたすら尊重するのです。教育は子供たちそれぞれが、どういう職業につきたいか、どういう生き方をしたいかに寄り添い、進む先を見出していく場所です。」
「自分に合った進路を見つけるまで何度でも学校を変えたり、職業体験したり、チャレンジできるので、若い人たちがなかなかすんなりと社会にでてくれません。それが一つの悩みでもあるのですが、その子が何をしたいかを社会が共に考えるのが教育なので、一人ひとりに寄り添うと本当に時間がかかります。」
という視察先の校長先生の言葉に感銘を受けたのですが、私は父にそういう形での寄り添いを父にしてもらっていたのだなと思います。 私が社会に出たのは25歳ですが、今も自分は自らの人生を選んできたという強い思いが軸にあります。
同じスピードで大学に行き、同じスピードで就職をすること。
それ自体を否定はしませんが、たまたま私や娘はその決定がすんなりと出来なかったのです。不器用だったのかもしれません。
娘はいまだ大学というルートに乗る気は起きないようで、AmazonやLineや500 Startupsなどのプロジェクトを渡り歩き、不器用に仕事をこなしています。そうしつつも、自分に足りない学問やスキルを自分なりに見出し始めているようです。
教育は本人がどういう生き方をしたいかに寄り添い、進む先を見出していくことだとするならば、うちの教育はまだまだ先が見えません。
亡くなった父の 「よかとよ(いいんじゃないか)」
という言葉を時々思い出しながら、娘と今年も向かい合っていきたいと思います。
月命日、4ヶ月目。
父がいなくなって、一瞬ポッカリと空いた穴に、最近は父からの愛が充填されてきています。父を亡くして以降、自分の置かれている“今”をとてもとても幸せに感じるのです。
私の人生、娘の人生すべて
「よかとよ」
でいこうと思います。
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関連ブログ:デンマーク視察のブログ。
私達母娘の選択に影響を与えたデンマークの高校(前編)
私達母娘の選択に影響を与えたデンマークの高校(後編)
父の月命日に寄せて:
今日は3月9日、父の月命日です。
そして、娘が自分で大きな決断をしてから、ちょうど1年。
「よかとよ」
という父の声が聞こえました。
この言葉は大学に行かないで自分でやりたいことをやるということを娘が私の父に伝えたときの父の言葉です。
寝たきりの状態でのかすれた声でしたが、今でもその声が明確に頭に残っています。
そして、その言葉は娘への父の最期の言葉となりました。
父の施設を娘と最後に訪ねたときの会話です。
父「アヤキはどこの大学に行ったのか?」
娘「大学には行かなかったの。自分でこれから進む先を考える」
父「そうか、よかとよ(いいんじゃないか)」
娘はおじいちゃんに何故進学しないのか?
これからどうするのか?
そんな進学校でそんな進路でいいのか?
とてっきり聞かれると思っていたので、「よかとよ」の一言に驚くとともに、なんだか心の底から理解されたような気持ちになったと言います。
インドでの挫折の記憶
思い返せば、私がインドの留学の途中で、スラムや売春厚生施設などのフィールドワークの実習続きの中、あまりの無力さにノイローゼになり、まったく学校に行けなくなったことがありました。原因不明の熱が続き、心因性の脱毛症になり、髪の毛は三分の一くらい抜けてしまったことがあります。
父はあのときも「よかとよ」と、短い言葉だけを私にくれました。
父とはインドに渡る際に大げんかをして、絶対修士をとって卒業すると啖呵を切った背景があった状態でした。
そんななか、本当に親馬鹿だと思いますが、父はわざわざ私のカレッジの学長を自分で訪ね、私の状況と、ほんの少しだけ信じて待っていてくれというようなことを学校に言ってくれました。
あんなに父と大喧嘩して渡ったインドです。何も達成できない状態になりながらも、父はずっと私の進む先をゆっくりと見守るつもりだったのだと思います。
なんの成果も出せなくても。
デンマークでの言葉
ふと、一昨年デンマークの高校を視察したときのことを思い出しました。
「自分の人生をどう切り拓くか、何がやりたいか、本人の意志をひたすら尊重するのです。教育は子供たちそれぞれが、どういう職業につきたいか、どういう生き方をしたいかに寄り添い、進む先を見出していく場所です。」
「自分に合った進路を見つけるまで何度でも学校を変えたり、職業体験したり、チャレンジできるので、若い人たちがなかなかすんなりと社会にでてくれません。それが一つの悩みでもあるのですが、その子が何をしたいかを社会が共に考えるのが教育なので、一人ひとりに寄り添うと本当に時間がかかります。」
という視察先の校長先生の言葉に感銘を受けたのですが、私は父にそういう形での寄り添いを父にしてもらっていたのだなと思います。 私が社会に出たのは25歳ですが、今も自分は自らの人生を選んできたという強い思いが軸にあります。
速度は人それぞれ
同じスピードで大学に行き、同じスピードで就職をすること。
それ自体を否定はしませんが、たまたま私や娘はその決定がすんなりと出来なかったのです。不器用だったのかもしれません。
娘はいまだ大学というルートに乗る気は起きないようで、AmazonやLineや500 Startupsなどのプロジェクトを渡り歩き、不器用に仕事をこなしています。そうしつつも、自分に足りない学問やスキルを自分なりに見出し始めているようです。
教育は本人がどういう生き方をしたいかに寄り添い、進む先を見出していくことだとするならば、うちの教育はまだまだ先が見えません。
亡くなった父の 「よかとよ(いいんじゃないか)」
という言葉を時々思い出しながら、娘と今年も向かい合っていきたいと思います。
月命日、4ヶ月目。
父がいなくなって、一瞬ポッカリと空いた穴に、最近は父からの愛が充填されてきています。父を亡くして以降、自分の置かれている“今”をとてもとても幸せに感じるのです。
私の人生、娘の人生すべて
「よかとよ」
でいこうと思います。
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関連ブログ:デンマーク視察のブログ。
私達母娘の選択に影響を与えたデンマークの高校(前編)
私達母娘の選択に影響を与えたデンマークの高校(後編)